鍼灸治療の不思議、言葉の壁

当院の鍼灸治療を受けたことのある方は、施術の流れをご存じかと思います。
でも実際にどのような考えに基づいて治療が進めているのか、疑問に思う方も多いのではないでしょうか?
たとえば、腰痛や肩こり、自律神経失調、冷え症状の方でも、当院では以下のような手順をとります。
- ·必ず腹部を触診する
- ·自覚症状と関係のない部位も触診する
- ·自覚症状のある部位に必ずしも鍼や灸をするわけではない
- ·脈を診る
非常に不可思議に思われることでしょう。
しかしこのような手順を踏むことで、単に「痛い場所」にアプローチするのではなく、 体全体のバランスを整え、根本的な原因を探る ことができるのです。
実は、このアプローチが 治療の納得感を生み、さらなる効果を引き出す重要な要素にもなったりします。
では、具体的にどういうことなのか、解説していきましょう!
腹部の触診──「ここが痛い=内臓が悪い」とは限らない?
施術の際、「みぞおちを押して痛みがあるか」を確認することがあります。
このとき、人によっては 「痛い=胃が悪いのでは?」 と心配されます。
下腹部を押して痛ければ、「腎臓が悪い?」と不安になることもあるでしょう。
しかし、ご安心ください。内臓が悪いかどうか判断しているわけではありません。
一部は全体
東洋医学では 「一部(局所)は全体を映す」 という考え方があります。たとえば、みぞおちの痛みを 「心(しん)」の領域 と捉えます。
この場合、みぞおちの痛みは のぼせ症状 の一つとします。熱は上昇する性質があるため、血流が上半身に偏ると のぼせが生じ、みぞおちに凝りが生まれる。
これが肩こりや頭痛の正体のひとつと考えるわけです。
また、おへその周り(東洋医学では「脾(ひ)」の領域)に凝りがあれば、それは 消化器系が弱っているサインと考えます。
このように、 お腹の状態を診ることで、体のどこに問題があるのかを推測しているのです。
脈診──「脈のコリ」を診る
脈を診ると聞くと、多くの方は「脈拍の速さを測っている」と思われるかもしれません。確かに脈拍の速さも大事ですが、脈の「触り心地」 を重視します。
つまり、脈のコリ。
ではこれで何がわかるのか?
- ·軽く触れただけで脈を感じる場合 → 「陽実脈(ようじつみゃく)」のぼせ傾向がある。
- ·深く押しても脈が消えない場合 → 「陰実脈(いんじつみゃく)」体に熱がこもっている傾向が強い。
これらの情報から、 のぼせなのか、冷えが影響しているのかを判断 し、それに応じた治療を行うことになります。
血管は全身に張り巡らされています。
もし 人の血管だけを抜き出してシルエットにしたら、人の形が浮かび上がる ほど密であり、血管は全身とつながっていることがわかります。
だとすれば、 脈の状態が変わると体全体にも影響が及ぶ のは想像に難くありません。
脈のコリを整えることは、体のバランスを取り戻し、症状を軽減することにもつながるのです。
なぜ必ずしも「辛い部位」に直接施術しないのか?
ここまで読んでいただくと、 「辛い場所が必ずしも原因とは限らない」
ということがなんつなく伝わったかと思います。
みぞおちに凝りがある人の肩こり は、のぼせが原因である可能性が高い。
しかし、 みぞおちに何も問題がなく肩こりがある場合は、 一時的な血流不足による肩こり かもしれません。
「でも、それなら休めば治るのでは?」と思われるかもしれません。
しかし、わざわざ治療院に足を運ぶということは、それほど単純な話ではないはずです。
肩こりにしても、ただの血流不足なのか、もっと深い原因があるのかを 見極めることが重要なのです。
このように、 同じ「肩こり」でも、原因が異なればアプローチも変わる ため、肩こりだからといって単純に肩に鍼をするわけではありません。
つまり自覚症状は「結果」であって「原因」ではない。だからこそ、 体全体を診ることをとても大切にしています。
当院では、こうした考え方に基づいて施術を行っています。
もしご不明な点がございましたら、お気軽にご質問ください!
言葉の壁
最近、ジョージ·オーウェル著「一九八四年」という小説を再読しています。
これは1950年代に書かれた1984年のを舞台としたSFディストピア小説です。
全体主義国家が行き着くところまで行きつき、個人の行動、言葉が逐一監視·統制された近未来社会が舞台です。
この物語で私が一番衝撃を受けたのは、ニュースピークなる英語を改良した架空の新言語。
これは英語(オールドスピーク)を為政者が意図的に語彙を制限し、
不要な概念を排除することで人々の思考そのものを統制しようとする言語体系です。
例えば、自由を意味する「Free」。
ニュースピークではこの「自由」に関する意味から「政治的自由」「知的自由」を排除しました。
たとえば
「シラミから自由→シラミがいない」
「雑草から自由だ→雑草がない」
といった単純な意味、つまり「〇〇がない」ということしかニュースピークでは意味しなくなったのです。
また、英語で「Good 」は「良い」、「Bad 」は悪いを意味します。
ニュースピークでは「より良い」はGoodの比較級「better(ベター)」ではなく「Plus Good( プラス·グッド)」
「最も良い」は「Best(ベスト)」ではなく「Double Plus Good(ダブル·プラス·グッド」」という単語でより単純化されました。
「悪い」は「Good」に否定形の「Un]をつけ「Un-Good」と表現することになりました。
つまり言葉のもつ意味が制限·改変されることで、その言葉に結びついた概念が消え、やがて「そんな意味があったことさえ思い出せなくなる」── 言葉を狭めれば、思考の幅も狭まるというわけです。
参考:「ニュースピークの基本的な原理は、表す言葉が存在しないもののことは考えることができない、ということにある。たとえば、自由の必要性を訴えたいとき、蜂起を組織するとき、これを言い表す「自由」や「蜂起」といった単語がなければ自由を訴えたり組織をつくったりすることは可能かどうかである。「われわれの言語の限界は、われわれの世界の限界でもある」(引用:Wikipedia)
このニュースピークについて考えるとき私はふと、明治時代以降に置き去りにされた 東洋医学 に思い至ります。
東洋医学の言葉が失ったもの
例えば、冒頭にも書きましたが東洋医学には「心」「腎」「脾」といった概念があります。
一見すると西洋医学の「心臓」「腎臓」「脾臓」と同じように思われるかもしれませんが、その実、大きく異なります。
たとえば東洋医学の「心」 は、単なる血液を全身に運ぶ心臓というだけではなく、 精神活動や感情のコントロール、上昇性があるなどを含む広がりのある概念です。
「腎」 は水分代謝だけでなく、生命力や根源的なエネルギーの貯蔵庫という意味を持っています。
しかし、明治政府以降、西洋医学が主流となる中で、これらの言葉は「心臓」「腎臓」といった臓器の名称 に翻訳され、本来の意味が失われてしましました。
もはや、そこにあった 「人間全体を捉える視点」 は消え去り、東洋医学が持っていた多層的な思想は「古いもの」として追いやられたのです。
「神経」という言葉もその一例です。東洋医学では「神(しん)」または「神気(しんき)」は 、精神や意思を司るものを指しますが、これが杉田玄白らによって西洋医学の「ニューロン(nerve)」という解剖学的用語と結びつけられ「神経」という言葉が生まれました。
とはいえ「神の通る経脈(道)」という翻訳は、むしろ東洋医学の発想にこそぴったり合っているように思えますが。
こうした視点で東洋医学を見直すと、そこには 身体と精神を切り離さずに捉える、立体的な考え方があることが見えてきます。
余談ですがベストセラー「バカの壁」の著者、養老孟司氏は「ようこそ解剖学教室へ」において「(解剖は)区別できないものにも名前をつけるから、ややこしくなって、わからなくなる」と述べています。つまり解剖学用語(言葉)によって体が切られる。
ということは解剖は体を切り分けて名前を付ける行為であり、名前を付けることが物事を分割することと同義であるということ。
だとすればひょっとすると東洋医学的なものの考え方を重視しようとすると、分割して理解しようというのは必ずし有効というわけでもないのかもしれません。
言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、 思考の枠組みそのものを形作るものです。だからニュースピークのように言葉が削られることで思考が制限されるのなら、
逆に 豊かな言葉を理解し、適切に使うことで、私たちはより広く、深く世界を捉えることができるはずです。
私たちが何気なく使っている言葉の奥には、それを生み出した文化や思想が息づいているはず。だからこそ、 言葉の本質を見極め、その意味を深く理解することが、より豊かな思考を生み出す鍵になる のではないでしょうか。
参考:「人は国に住むのではない。国語に住むのだ。国語こそが、我々の祖国だ」ルーマニアの思想家エミール・シオラン(引用:Metal Gear Solid V)
言葉を見直すことは、 思考を見直すこと にもつながる。
言葉を正しく知ることは、 自分の世界を広げること でもある。もし、ニュースピークのように語彙が制限され、世界の見え方が単純化されてしまったら…。
それは、私たちが生きる世界そのものの単純化にもつながるのかもしれません。
だからこそ、今ある言葉を大切にし、これからも深く考え続けていきたいものです。