あの一九八四年の世界で古典は存在していたのか?
- あれ、久しぶりにこの道を通ったけど昔となんだか違う気がするなぁ
- でも、どうなっていたんだっけ?
いつの間にか新しい建物や道路ができたとき、元々そこにどんな建物が建っていたのか?さっぱり思い出せないことってありますよね。記憶とはかくも曖昧であてにならないものです。
そしてそれは「言葉」も同様でしょう。
鍼灸治療で重要とされる「気」「陰陽」「太極」などという言葉が載っている易経とか難経とかいうとっても古い古典、そこに書かれていることが事実だと、そしてその古典がそもそも昔からあるものだと、鍼灸師は何を根拠に信じているのでしょう。
- 信じたいから信じている。
- 昔からそういわれている。
- このツボはどこどこの蔵府と関連しているということになっている。
- 実は、その程度のことではないのか?
- そう考えてはいけない理由はあるのか?
ジョージオーウェル著「一九八四年」から鍼灸を考える
この小説「一九八四年」を読んでいてふとそんなことを思うのです。
この小説は、架空の独裁政権によって、その政権にとって都合の悪い過去の記録は常に改竄され続け、個人の行動が逐一監視され、言葉の統制(とくに動詞・形容詞の改変・削除)によって人の思考・行動を統制する、徹底した監視社会、全体主義を描いた60年以上前に書かれたディストピア小説です。
小説を読み進めていくと、なんだか個人の行動を常に監視する「テレスクリーン」はスマホに、過去を捏造する虚構省のニュースはフェイクニュースに思えてきて、現代の自由なはずの世界と「一九八四年」の監視社会が、どこか隣り合わせのように感じる息が詰まりそうなほどの怖さがあります。
一九八四年との違い
ただし「一九八四年」に出てくる人々「党員」とは違い、私たちの世界では自由があり、古典に書かれている言葉が真実かどうかを実際に試し体験し確認することができます。
そこに価値が見出せ続けている限りそして、「一九八四年」のように過去が捏造・改竄され続けていく世界でない限りは、鍼灸はこの先も生き残っていくと強く思うのです。
ということで、やはり先に書いた、気とか陰陽とか太極などという言葉にはやはり価値があるのです。少なくとも私はそう信じています。
でも今やインスタやFacebookなどのSNSによって個人レベルで、あらゆる情報を世界に拡散することができますが、それらの情報が正しいかどうかは、分かりません。実際に自分の目で体で体験するまでは。もちろん鍼灸も。