鍼灸治療は「症状」でなく「人」を診ると言われる理由。
クリエイターとしての鍼灸師
鍼灸施術について考えたとき、鍼灸院とは体の辛さを取る施術院です。
そしてその目的が完了したらいく必要がなくなる、というところです。
つまり、病院や医院、診療所の延長線上に鍼灸院も位置しており、そうあるべきだという主張は極めて真っ当であり、そもそも正しいです。
なぜなら鍼灸施術は体の痛み、たとえば肩こり、頭痛、首こり、背中の痛み、自律神経系統、などの改善がある程度見込むことができるからであるし、それが施術を受けられる方が求めらていることだからです。
鍼灸師は国家資格であるといことからもその事情は伺えるでしょう。
しかし、果たしてそれだけで役割は終わりなのでしょうか?
というのは日々臨床をしていると同時に、僕の感情は常に固定せず常に揺れ動いている。
そしてそれは何も僕だけではなく施術を受ける方(あなた)だってそうでしょう?
- 自分の今の辛さがどうなるのか、鍼で良くなるのか?
- 今回もダメなのかもしれない。
常にその感情は一定ではないはずです。じゃあ、この感情ってどこから湧いてどこへ行くのでしょう?
僕はそれが気になって仕方がないのです。
そこには鍼灸師と施術を受ける方双方に、今まで経験してきた自信と同時に不安、その他言語化できない感情が絡み合っています。
だとしたら鍼灸施術とは、その感情を鍼灸という表現によって、患者さんを通して具現化している行為ではないのでしょうか?
どういうことかというと、鍼灸院、鍼灸施術は医療・医術のカテゴリーの中にあるものとして、さらに、鍼灸はアートやエンターテインメント(以下、エンタメ)演芸、美術、音楽を行うクリエーター的な側面を同時に併せ持っているのではなのではないか?ということです。
鍼灸がアートだったなら?
さて。
演芸、美術、音楽をエンタメやアートと一括りにするのは乱暴かもしれないが、あえて抽象化すると次のような表現になるでしょう。
- 心が変化すること
- 心が動くこと
- 心が整うこと
- 心が乱されること
つまり。
【表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うこと。感覚的な変動を得ること。】
”出典:Wikipedia
文章が長いので、今回は一言で、「感覚的な変動を得る」ということを「感動」と呼ぶことにします。
まとめると、アートとはなんらかの表現手段によって表現者及び鑑賞者が相互に「感動」を得ること、つまりアート→感動
ということになるでしょう。
アート→鍼灸=感動
だとしたら、僕が日々鍼灸施術に臨んでいることはなんらかの表現・表現者であり、患者さんはその鑑賞者だということになります。
つまり、鍼灸施術という自己表現によって、鑑賞者である患者さんは施術によって生み出される作品そのもの。
鍼灸施術は体の不調を改善していく手段であるのは言うまでもありません。そしてそれは同時に鍼灸施術者による患者さんに対する自己表現の場であると主張したいのです。
こういうと混乱するかもしれません。これを、より理解するために、現代医学と鍼灸(東洋医学)を比較して、なぜそういうことになるか考えてみます。
現代医学の特徴
- 血液検査、MRI、レントゲンなど画像的、数値的な科学的データに基づく
- 科学的データで異常値が出なければ異常なし、もしくは原因不明とされる。
つまり、現代医療とはほとんどイコール科学のことを示します。客観的なデータで異常値が出ればそれは治療の対象となる、という当たり前の結論です。
その科学的データが正常値になれば、それは治療を完了したことを示します。
患者がそのときどう感じたかは、直接関係がありません。
なぜならそれら主観的な情報であり客観化、一般化できないものは科学の評価の対象になりえないからです。
つまり、主観的なものは科学では排除されなければいけません。
だから治療行為に「感動」を得る場は、医者の臨床では患者側が勝手に感じることはあっても医者にとっては必須ではないでしょう。
そこには患者から得られた科学の数値データを判断する科学者(医者)がいるのみなのです。
医者が何かを思っていても科学的に実証された治療法以外に施せる手段がない。(とはいえ、その数は膨大であろうけど。)
ここでの僕の主張は科学者に感動が必要でないとか、ないとかいうことではありません。鍼灸とのあくまで比較として使用しただけです。
(そういえば、医者はその感情をどこへ持っていくのだろう?たまに医師であり作家活動を、している方がおられるが納得することです。その医療現場で起こった感動のやり場が作家活動へ発展していったから。)
で。
患者さんがその科学的データが投薬治療や物理治療、手術などで正常の範囲内に位置したときに、本当に患者さんの辛さが解消されることとイコールであればよい。
でも、そうでない場合、患者さんは辛い状況を抱えたままとな理ます。
そんなことあるでしょうか?もちろんあります。
たとえば、腰痛症の80%以上は医学的には心因性という結論になっています。
つまりはストレス。
ストレスや痛みは客観的評価ができない
ストレスは客観評価できません。AさんとBさんのストレスを比較してAさんがBさんより何%ストレスを感じているか評価できないということです。
痛みにしてもそう、客観化できません。
そんな状況にある患者さんが行き着く先が心療内科、つまり心の分野を扱うクリニック。
またあるいは鍼灸院という選択を取る方が一定数おられる。
我々鍼灸師はそのニッチな層を掬い取る。
鍼灸施術(いわゆる東洋医学)の特徴
鍼灸は誤解を恐れずいえば主観的評価であってなんら問題ありません。なぜなら東洋医学は主観的な面がデメリットでなく主観こそが東洋医学の特徴だと僕は考えているからでです(ここについてはまた別の機会に触れます)
→たとえば医学的には心因性と診断された腰痛症をもつ患者さんがいたとしましょう。
その患者さんを鍼灸師はどう施術していくというのでしょうか?
具体的には以下の通りでsy。
- 施術を受けている方の自覚的な辛さを確認する。
- 脈状を確認する
- 体のいわゆる凝りを観察する
- 冷え、汗、火照りなどの状態を確認する。
- 鍼や灸でどうそれらが変化したのか?確認する
- 施術を受けた方の変化改善の印象を聞く
これらはMRIでもCTでもレントゲンでも映らないし血液検査結果にも反映されない情報群と言えるでしょう。
こんなものは医学の判断材料にならない情報ではないでしょうか?
科学的に言えばもちろんYES。
しかし、鍼灸はこういったことを重視している。少なくとも東洋医学を標榜している僕のところのような鍼灸院はそうです。
この特徴の行き着く先は、辛い症状を抱えた方の主観的主張を鍼灸師がまた主観的(経験的)な理論によって変化改善を得ようという、なんとも頼りないものである。
だが、そこにこそ鍼灸はアートであるという僕の主張があることになります。
- 辛い体を伴うその人と、主観的な理論でその改善を図ろうという鍼灸師の間で生じる何かしらの「感動」がある。
- この感動は鍼灸師、施術を受けた方その方の変化をもたらす。
そしてその患者さんのその変化そのものを作品だと見なしていいのではないかと考えています。
東洋と西洋
患者さんは鍼灸師の理屈で鍼灸施術を受ける。そこには必ずしも科学的な判断があるとは限らないと先程申し上げました。
つまり鍼灸師は鍼灸師の理屈(東洋医学)によって患者さんを施術する。そこには鍼灸師の主観的、感覚的なもの、経験的なものが確実に反映されています。
その中には患者さんの数値化できない「想い」のほかに、鍼灸師の何%かの「迷い、悩み、自信」なども含まれているはずなのです。
まとめるとこうなります。
- 主観的経験的な理論で出来上がった東洋医学の治療体系は、やはり主観的な患者さんの自覚的情報から得て施術で還元する。
- その時、抽出できるのは、患者さんと鍼灸師の間のいくばくかの「感動」が生じる
- より簡単にいえば、医者では、症状を対象に、鍼灸院ではその対象は症状ではなくその「人」そのものにある。
きっかけ
なぜこんなことを考えていたかというと、僕自身、なぜ鍼灸を日々生業として毎日行なっているのか?
その「なぜ?」が分からず、「分かりたい」という衝動に駆られるようになったからです。
鍼灸施術はたしかに症状を改善していくことを仕事とします。
それは当然わかっています。
でもその症状を抱えている目の前にいる人は「症状」ではなく「人」です。
そして僕も症状を見ることは大切なのだがその「人」そのものを施術対象にする。
その鍼灸施術行為の中から端々に散るように僕の思いがその人を触媒として僕自身にいつも問いかけてくるのです。
お前は何のためにこの人を鍼灸をしているのか?と。
- 助けるため?
- 家族を、養うため?
- 生きるため?
しかし確率を、言えば良くなる人もいれば、そうで無い方も一定数存在することになりますよね。
ならば、人を癒す、治すなどということが烏滸がましいことだとは思いませんか?
だから思ってしまうのです。お前はなんで日々、鍼灸をしているのか?と。
鍼灸師はクリエイター
そんな時こんなことを思いました。
それは例えば、夏目漱石の「草枕」の一説にもあります↓
【山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。】
”出典・草枕”
そして。
レコーディングダイエットの考案者であり「いつまでもデブだと思うなよ」の著者、オタキングこと岡田斗司夫さんはこんな趣旨のことを仰っていました。
【クリエイターは、自分はなぜそれ(作品)を作っているか実は分からない。
作品のテーマなんか知らないのだ。だからこそ作ってしまうのだ。
作ってみたあと「ああ、俺の作ったこの作品ってこういうことなんだ」と気づく。
そしてそれは鑑賞者(ファン)から指摘されて初めて気づくこともある。】
これらを見知った時、僕の頭に稲妻が走った。「ああこれだ!」と直観したのです。
自分の仕事鍼灸師もクリエイターと同じだ、と。