スタジオジブリに学ぶ鍼灸院のあり方

鍼灸施術は技術職の側面があるため、職人カタギのように「こだわり」や「執着」をもつ先生が少なくない業界だ、と僕自身の性格を含めて感じている。

例えば以下。

  • 技術は人間性が伴っているべき
  • この鍼を使わなければだめだ。
  • 紹介があればいい、宣伝なんてするな
  • この鍼灸治療法しか認めない

そんなこだわりは時として、鍼灸の可能性を狭めたり、視野を狭くしてしまう。

でも別にこれが「悪い」ということでもない、その鍼灸の治療によって施術を受けた方が「良くなった」とか「行ってよかった」と実感できたかどうかを基準にすれば。

しかし、この職人カタギ的鍼灸は、行う鍼灸に一定の効果があるとしても、その鍼灸施術を受ける方の絶対数が少なければそもそもその施術を受けられる数も相対的に少なくなっていく。

そんな事情が反映されているためか日本での鍼灸の受診率は5%程度で600万人程度(千葉県民人口と同程度)が市場規模。

だから「こだわり」や「執着」は時として、その施術家の鍼灸院の存続に影響を与えかねない側面があるのではないか?と僕は考えている。

ではどうするか?

手っ取り早いのは上手くいっている業界の構造をそのまま持ってくるという手法だ。

鍼灸院と似た業態で真っ先に思いつくのは美容院だが、僕の意見は別にある。スタジオジブリ(以下ジブリ)だ。

最初に断っておくが、僕の偏った知識(主に岡田斗司夫ゼミ)と妄想と憶測がかなり含まれているので、あくまでこういうふうに考えるその構造を鍼灸院にも応用が効くかもね、という与太話として読んでいただきたい。

宮崎駿、高畑勲、鈴木敏夫という三すくみ構造をマネする。

宮崎駿は「風の谷のナウシカ」や「となりのトトロ」を代表作品する言わずと知れたアニメ映画監督。 

高畑勲は火垂るの墓、平成たぬき合戦ぽんぽこ、遺作「かぐや姫の物語」を作ったアニメ映画監督。

今回詳しいことは割愛するが高畑と宮崎はいわば師弟関係にある。(ちなみにエヴァンゲリオンを作った庵野秀明監督はかつてかジブリ作品「風の谷のナウシカ」の巨神兵の登場シーンを担当。)

※巨神兵

そして、プロデューサー・鈴木敏夫氏(現代表取締役)。

このかつての三すくみ体制のジブリの構造を鍼灸院に当てはめるとどうなるかを考えていく。

マイナーからメジャーへ

ジブリは常にヒットメーカーであるというイメージがあるかも知れない。

しかし、実は少なくともナウシカに始まり、トトロ、ラピュタまではヒットしたとはいえない。ラピュタに関していえばレッドタートルある島の物語を除き、ジブリ歴代興行収入ワースト1。あの金曜ロードショーの「バルス祭り」が起こるほど世に浸透している今では考えられないことであろう。

ジブリ以前に作った宮崎駿初監督作品、「カリオストロの城」も散々たる結果で、宮崎駿は数年に渡り業界を干された経験すらあるほどだそうだ。

あくまでアニメ映画として宮崎駿及びジブリはマニアは置いておいて、世間的にはマイナーな存在であった。

ジブリがヒット作品と作ったと言えるのは「魔女の宅急便」以降である。

そして「千と千尋の神隠し」へとつながり、興行ランキングは鬼滅の刃に抜かされるまで不動の一位であったのは周知の事実だろう。

でも、おそらく一般の方が知っているのはヒットメーカーとしてのジブリではないだろうか?

今ではカリオストロの城はもちろん面白いし、ナウシカも面白いし評価されているはずだが「どんなに優れていている作品でも」それだけではヒットしない、という現象は重要であろう。

宮崎駿と高畑勲の関係を利用する鈴木敏夫

高畑勲は宮崎駿の師匠にあたるが、高畑作品の基本は文芸に近い作風ゆえにエンタメ要素が少ない。

ゆえにヒットさせにくい。そして納期を気にしない(宮崎と高畑が交互に2年ペース程度で1作品作って行かなければジブリは回らないものを彼は遺作「かぐや姫の物語」に関しては8年も作り続け、しかもヒットしなかったのでジブリは解散した経緯がある)

一方で宮崎駿作品は大衆向きでありエンターテイメント要素が強いメジャー性がありながらも宮崎自身の思想を作品内でしっかり表現する。そして納期を守る。(でも初期作品での興行成績は振るわなかった。)

かなりの分量を割かないといけないので割愛するが、この作品性の違いは宮崎駿は高畑勲を尊敬すると同時に嫉妬の対象にあったようである。 

いいかえれば、宮崎駿は高畑勲に認めて貰いたい一心と同時に彼に対する嫉妬心から自分の作品を作っていった。

そしてこの「こだわり」があらゆる宮崎駿作品の根底に流れている、と考えると以下が見えて来ると思われる。

  • 宮崎駿と高畑勲を化学反応させると優れた作品が誕生するらしい。
  • 宮崎駿は自らの思想を織り込みながらもメジャーなエンタメ作品として昇華させられる。
  • 高畑勲は作りたいものを作る。そしてそれが文芸作品なので万人が共感しにくい。
  • ヒットにつなげるためには鈴木敏夫のプロデュースが必須。

鍼灸師は高畑勲タイプが多い?

さて鍼灸師は一定数職人タイプが存在すると思う。

それは別に悪いことではないことは最初に述べた。

行う鍼灸治療に込められた思想は素晴らしいものかもしれない。

が、しかしながら問題があるとすれば宣伝・広報がとにかく苦手、もしくは必要ない、自分の仕事ではないと考えていることだ。

だからとにかく自分を売るということができないため、診られるべき患者さんの絶対数は宣伝できる人より少なくならざるを得ない。

この「自分のやっていることは、わかる人にわかればいい」というスタンスは、同時にさらにこだわりや執着を強めるだろう。

これを高畑勲タイプと呼ぶことにする。

先程申し上げたが高畑勲は自作品「かぐや姫の物語」を8年作り続けジブリを潰したのだ、こだわりも、過ぎれば元も子もない。

では宮崎駿タイプの鍼灸師像は?

高畑勲と宮崎駿も職人肌であるのは間違いないがそれでも違いがある。

僕自身は鍼灸師は宮崎駿タイプであれと思っているが、その理由は宮崎駿は自らの思想を作品に折り込みながらもメジャー志向の作品を作れる、というところにある。

とはいえ、宮崎駿監督も当初は自作のキャラクター商品化さえ許さなかったそうだが。。

この構造を具体的に鍼灸師に持ってくると、こうなるのではないか?

自身のこだわりを持つ鍼灸治療を行いながら美容鍼を取り入れられる鍼灸師になること。

なぜここで美容鍼か?別にダイエットでもいいのだが一言で言えばメジャー志向を取り入れること。

つまり誰が見てもそれを見てそれが「分かる」かどうか。

  • 古くはテレビに対するラジオ
  • YouTubeに対するニコニコ動画
  • 宮崎駿作品に対する高畑勲作品
  • 西洋医学に対する東洋医学
  • 美容鍼に対する鍼灸治療

それぞれの前者はメジャー志向があり何よりわかりやすいが、後者は共感するもののみ有効な手段、だからマイナー層には刺さりやすい。

したがって、このメジャー性があるかどうかは、売れるかどうか?世間に広がるかどうか?という視点からみればかなり重要な事だ。

この相関関係を理解して、いかに売り出すことを考えらるか。

そしてこだわりを持ちながらも、そのこだわりを活かし鍼灸院を運営して行くことが大事だと考えられる。

ちなみに僕のやってるあかつき堂鍼灸院での鍼灸治療はまさに高畑勲タイプだと認識している。

鍼灸が形(型)だとしたら

空手などの武道の形(型)稽古のように、師匠の行っているそれを同じように真似て学ぶ、例えそれがなんのためにやっているのか分からなくても、分からないということを含めてとにかく真似る。

それはすし職人の飯炊き3年、握り8年みたいな世界といえば通じるかもしれない。しかし師匠の真似を何年も真似していくと次第に師匠に近づくが決して同一にはならない。

この違いがその弟子の個性になる。

そのために

    • 一つ一つの動作、佇まい
    • 目線、言葉遣い
    • 触診の仕方、鍼の持ち方、鍼の仕方

 

を徹底にして真似る。

真似て、真似て、限りなく師範に近づく、この師弟関係のようなスタイルがメジャーになり得るはずがないし、言葉で表現できるような世界なはずでもない。

つまり、治療理論や形に関して、僕はこのようなこだわりがあり、このこだわりは同じ師範のもとで習ったとか、同じ鍼灸施術法を習ってきたというような間柄でないと通じ合えない、ましてや患者さんや他の人には絶対的に通じないこと

高畑勲とあるし、それが各々の作品性の違いとして現れていると思えるからだ。

僕にも師匠的存在がもちろんいる。この師匠の業をいかに身につけるか?ということに10年以上費やしている。

そこに限りなく少しでも近づいて行けていると自覚は多少なりとも感じていたとしても、やはり考えた方や鍼灸施術が全く同一になるということはない。

でもそれが個性になる。

僕は、美容鍼のようなメジャー性のあるものを取り入れて、鍼灸専門というこだわりを押し通しながらもある程度のニッチ層やメジャー層へのターゲットにどうアプローチできるかということを常々考える、ということをしている。

高畑勲と宮崎駿の師弟関係、宮崎駿と庵野秀明の師弟関係として彼らを観察すると本当に興味深い。

そこでは言語化できない世界が確実にあるし、それが各々の作品性の違いとして現れていると思えるからだ。

アイデアは0→1にすることではない。

さて、なぜこのようなことを考えたかというと、岡田斗司夫ゼミの「アイデアの作り方」という動画を見たからだ。

→YouTube(岡田斗司夫ゼミ、アイデアの作り方)

そしてここからが本題である。

そもそもアイデアは何かと何かの組み合わせで成り立っていて、たとえば映画などのストーリーのシナリオ構成は実は分類すれば48通りしかないのだそうだ。 

言い換えれば、どの作品でもそのシナリオは48通りのどれかの組み合わせでできている。

岡田さんの言葉を借りれば「アイデアは生むものではなく、持ってくるもの」とのこと。

どういうことか?

たとえば、

  • こち亀とドラえもんは同じ構造。
  • カレーと肉じゃがは同じ構造
  • 鬼滅の刃とハンターハンターは同じ構造
  • ハンターハンターとドラゴンボールは同じ構造

この中で一番わかりやすい例らはカレーと肉じゃがの構造である。

この文脈で考えることがアイデアを作る(持ってくる)ということであるらしい。

漫画の構造は音楽のコード進行のようなもの。

この構成を借りるという方法は別の言い方をすと音楽のコードを借りるというのに似ている。 

コード進行は同じでもそこにどのようなメロディを当てるか?そこにオリジナリティが求められる。

しかしコード進行そのものは言ってみれば人類の共通資産といえる。

同様にアイデアも共有資産だと考えると腑に落ちる。

この考え方は「アイデア」は0→1というふうにして生み出すモノだと無意識に思っていた僕にとっては、うんうん唸ってしまうほどの衝撃を与えた。

なぜ鍼灸院にジブリの構造を持ってこようと思ったか?

その一番の理由は、宮崎駿も高畑勲も自分の思想が自分の作品に【隠されている】からである。

そしてそれが鍼灸師が鍼灸治療にかける想いにかなり共通した構造だと思ったからである。

つまり、東洋医学、西洋医学問わず、鍼灸治療の治療体系は無数にある。

その中で自分が何を理念に置きどのような鍼灸スタイルで目の前の人を施術するか?

それは鍼灸師の考え方、もっといえば生き方が影響するものなのは臨床家ならわかるはずだ。

その意味で僕は鍼灸師はクリエーターなのだと僕は思っている(関連記事→鍼灸治療が「症状」ではなく「人」を診ると言われる理由)

しかし、鍼灸治療なるものを突き詰めれば突き詰めるほど、なぜか馬につけられたブリンカーのように視野が狭くなりがちで独善的になる。

宮崎駿作品「魔女の宅急便」。ジジと会話できなくなったキキがクライマックス後に晴れ晴れとしているのは何故か?一切説明されないまま終わる。

なぜ宮崎駿監督作品「風立ちぬ」では零戦を設計した堀越二郎は、徹底して美しいものにしか興味を示さない人物像として描いたのか?

高畑勲作品「ホーホケキョとなりの山田くん」、長期にわたる制作期間であったにも関わらず全くヒットしなかったが火垂るの墓の後なぜこの映画を作ったのか?

高畑勲監督の遺作「かぐや姫の物語」。なぜこの作品を8年もかけて作ったのか?

  • 俺の鍼灸以外のほかは認めない。
  • 極論、分かるやつだけにわかればいい。

と。こうなりやすい。宮崎駿タイプでメジャー性を持ち合わせていても、もしくはこの高畑勲タイプであるほど自分の信念を曲げない

これでは院が存続させるのが難しいのも無理はない。

思想とヒットが両立する脅威

詳細は割愛するが「なぜそれを作らなければならなかったのか?」は、実は宮崎駿作品をものすごくちゃんと観ると底が見えないほどの彼の思想が入っていることがわかる。

岡田さんはそれを時折「作家性がある・ない」という呼び方をする。

宮崎駿自身の言葉を使うと「映画になっている、なっていない」という表現だ。

つまり、その映画を作った理由が作者自身の葛藤や理屈によって熟成されているかどうか。

しかしその作品が「映画になっているか・なっていないか?」、そんなこと殆どの大衆(メジャー層)は考えないし、興味もない

メジャーは分かりやすいものに常に反応するから。言い換えれば常にわかりやすいものに反応する大多数をメジャーというべきか。

宮崎駿はこの思想とヒットを両立させる。

これってとてつもないことだと思うのだ。